虎岩 寿平 ~智証院草紙~
この文章は、かつて発刊された「古老は語る」から、縁者である虎岩寿平の随筆を抜粋したものである。



はしがき
 幼き頃、二級清酒と柿の種を手土産に、寿平翁に外国語と時勢を習う日々は最上のものでした。
 今日の様な時代に於いて、明治の御代に生まれ、簡素な暮らしをおくりながらも先人たちの心温かい微笑みに、人間のあり方を考えます。

 平成二十七年 秋  宗春
虎岩寿平
 明治三十年駒場に生まれる。
 東京での商社勤めの後、故郷駒場に余暇を楽しんだ。
 英語、エスペラント語を得意とした。
エスペラント語の辞書
エスペラント語の辞書
駒場地狂言物語り
其の一
 昔駒場の地狂言といえばこの地方きっての大評判の名演劇とうたわれていた。
 駒場の若い衆も春の祭りも近づいて皆城山(阿智公園秋葉様前の広場)に立てられた稽古舞台に集まって、御師匠様をかこんで一生懸命に稽古していた。
 その中に一人の青年がいた。彼の役は赤鬼に分する役でした。あまりに所作事に身がはいりすぎて、せりふを打ち忘れることが毎々あった。
 花道から走りいでて舞台の真ん中にふんばって「どこかこゝらで人臭い」のせりふを「どこかここらで」までは言えたが、そのあとはつまって赤鬼はほんとに真っ赤な顔になってもあとが出なかった。
 御師匠様は当日のことを非常に心配されて、「当日には舞台の真ん中にせりふを書いておいてやるから、もしつまって言えなかったら板敷を見てあとのせりふを言うように」とくれぐれも注意したのだった。
 いよいよ安布知神社の祭典の当日となった。清坂脇の回り舞台前には、村はもちろん近郷の人々まで大勢集まった。彼の青年の家の者はひろく親類の方々をよんで「今日はわしゃほの息子が上手に芝居をするで皆よく見てくれ」と酒肴をすゝめながらもてなすのでした。
 幾つかの狂言はすぎて、いよいよ彼の出る幕となった。
 幕はあいた。拍子木の音勇ましく花道から赤鬼に扮した彼は走り出て来た。舞台の真ん中にふんばって大見えを切った。あまりに所作事が上手さに皆拍手を送った。
 「どこかここらで」と上手にせりふを言った。あとつまった。うーんとうなった。
舞台の板敷を見た。運悪く太い金棒が人の字の頭の所へどんとつっ立っていた。人の字はへの字に見えた。
 ついに「どこかここらでへくさい」とさけんでしまった。見物の面々は一度に大声をあげて笑い出した。彼の家の者達は穴でもあったらはいりたい気持。招待された御親類の方々はおかしさを笑うこともできず、たゞ目を白黒するばかりでした。
 御師匠様はたまりかねて幕を「チャンチャン」と引いてしまったのであった。
其の二
 地狂言の真っ盛り、ある青年は掛け合い問答の烈しいせりあいの場面で大事なせりふを忘れてしまった。
 御師匠様は囃子方の席で小声で忘れたらとんで言え言えと言った。
 本人は一といきだまっていたかと思うと、座敷の見物席の方へ一足飛びにとびおりた。そして「飛んでも言えん」と大声でせりふ句調でどなってしまったのであった。
其の三
 駒場の地狂言ではいよいよ忠臣蔵をやることになった。平右ヱ門をつぼやのお爺さん、お軽を私の父がやることになった。
 若かりし日のつぼやの延治郎爺さんの平右ヱ門は、千両役者でもこれまでという評判でした。私の父のお軽も非常に上手なできばえでした。水もしたゝるようななまめかしいお軽の姿に、上町のある御姉さんが首っ丈ごっそりほれこんで自分の髪の毛を切って舞台へなげるようなさわぎもあった。
 せつないお姉さんの思いがかなったかどうかは私の知る由もない処だ。
《補注》 駒場地狂言物語り
《忠臣蔵六段目》 ※お軽が連れ去られる場面
《忠臣蔵六段目》 ※お軽が連れ去られる場面
 駒場安布知神社境内の舞台は八間に四間、二階建ての回り舞台でした。これが近郷に名高い駒場地狂言の場で、駒場には下中屋の納屋を舞台にした中屋座や、村芝居のための今宮館が大藪の隣に建てられたそうです。大正はじめには島垣外の池田稲太郎氏が掛小屋を作り、肥料屋の松岡徳右衛門氏が桶川藤蔵氏と共同で栄町一丁目に駒場劇場を作り、昭和十八年売却するまで活動写真をやっていたそうです。
 芝居好きは駒場に限られた話ではありません。現在早稲田大学坪内博士記念演劇博物館に寄付されている丸山人形も知られた郷土芸能で、三晩出しものを替えてやれる程でした。熊谷譲爾さんによれば、明治十七年に山本村箱川の人形を買いとって以来、若衆から年寄連中まで義太夫、浄瑠璃、操り人形に熱中し、部落総がかりで間口六間、奥行三間の舞台を新築しました。そのころは二十戸ばかりの部落だったといいます。しかし昭和はじめになると、櫛の歯がかけるように役者が一人二人と減って、外題も伽羅千代荻御殿、安達原三代目、朝顔日記宿屋、鎌倉三代記三浦別れ、堀川夜討弁慶上使、播州鳳凰敷、絵本太功記十段目、玉操前旭袂金藤次上使などにかぎられたようです。熊谷譲爾さんは、阿智村の多くの部落が野熊山付傅木成の天領であったことから、狂言、獅子舞、喘唄、手踊り、義太夫、浄瑠璃をよくする者が代々いた遠因とお考えです。天気予報の宇之吉さん、壺屋のお爺さん、人生数え唄の与平爺ま等々のキャラクターは、まさに土地っ子らしいとお思いになりませんか。
 伊那谷、ことに飯田を中心とする町村の郷土芸能の豊かさは瞠目すべきものです。
会地学校開校式
 それは明治三十五年の初めであった。会地学校新築の材木が、沢山阿知川橋で川上げをしていた。その時分には大橋通りには僅かな家しかなかった。現在の織屋さんもなくあの辺一ぱいに大木が川上げされていた。私たちはそれを見に行った。阿知川に斜めにうしを入れて、川には水が見られぬ程大きな材木が浮いていた。鳶職が狭い処に大勢集まって大きい材木の取り扱いをしている最中でした。ある鳶職が川に浮いている材木の上をぴょんぴょん飛びあるく余興を演じていた。大木から大木と飛ぶごとにぐるぐる廻るのでなかなかむずかしい演技だ。駒場下町金屋の前の広小路には沢山な材木が運ばれて大きな鋸ぎりでズイコズイコと引き割るのでした。いよいよ地搗が始った。私たち一年生は母校新築の感激にみちた。村民はこぞって学校建築に労働奉仕をした。大勢の力は恐ろしいもので、地搗は地搗歌おもしろくぐんぐんすすんだ。いよいよ沢山な柱もたたり、通しの大きい梁を上げることになった。力のある鳶職は吊された梁にのぼって、万力の綱を大勢で引くごとに高くあがっていき、足でかじをとり柱の鑿穴にはまるよう細かく動かすのであった。まるでサーカスでも見ているようであった。私の祖父は父の委員の代理として、建築工事場へとまりかげの夜警に度々行くのでした。
 今の丸駒産業の所が体操場、他に八教室が完成して九月二十日に開校式となった。私たちは一年生で一番前の腰掛けにこしかけていた。佐藤賛四郎村長の祝辞、その他長々とかかった。式がすんで村民の祝賀会が開かれた。帰りに日の出に鶴の落雁を二つもらって安布知神社の前までくると、旧道に前原と中関の花火の出し場が鳥居の前に立派にできていた。新調の花火の筒五寸玉用二本がならんでいた。青竹のたがを張りめぐらせたみねばりの新しい木の香りがするような気がした。時の青年ほていやの兄さん等が火薬を入れ、玉も水縄でおろされみち火をつけると新しいみねばりの筒音勇しくずどんと空高く打ちあげられた。青空に開いた日の丸の旗のついた満月が、中関方面へひらりひらりとまっていった。私たちは花火の玉の三角に割れたかんばりを拾うのが楽しかった。
 村中の各部落はおたがいに幾日もかかって自製ま花火をたくさん用意して、開校式当夜の空を美しくいろどらんと早打ちに打って打って打ちまくった。前原・中関は花火の名人揃いなので水光星・赤光星等すぐれた花火が見うけられた。私等は表の広小路へむしろを敷いて、土佐やの屋根の上に出る花火を御馳走をたべながら見ていた。最後に大三国は校庭で出すので学校まで見に行った。大きな櫓にそなえつけられた木の太い筒から、まれにみる大三国を見ることができたのであった。
知久保山裁判
 昔駒場お所有の知久保山の内師々路、青木沢以南の山へ、隣村の者共が大ぴらに盗伐にはいりこんできた。時の駒場庄屋及び山林総代は、大いに驚き山廻りを厳重に始めたのであった。犯人をつかまえて談判したところ、この山はおらが村の山林だ、駒場のやつらはつまらぬことをいうなとすさまじい勢いであった。師々路山の中腹に隣り村よりの山路を、新設されているのを発見した。もはや隣村の庄屋へ談判する余地はなくなった。仕方なく駒場では時の代官に提訴したのであった。現代のように土地台帳もなく、話は非常にむずかしくなった。ついに江戸へ事件審議は移り、数回も駒場の庄屋等は江戸へ出張するのだった。
 当時山は駒場に沢山あったが、現代のように山林からの収入も少なく費用に困ったので、狐洞前の城山より作ヶ畑前までを村民に分割払い下げして裁判費用をつくったのであった。その後段々転売されて他村の者の所有に変わった所もできてきたのであった。
 いよいよ江戸より役人が実地検証にくることになった。駒場の庄屋及び隣村の庄屋と江戸の役人は、段々知久保山奥へ向かって行った。駒場の庄屋は何言もいわずに静かについて行った。隣村の庄屋はさも自慢そうに、ここが何山何洞と説明しながら山奥へと登って行った。そのうちに隣村の庄屋は駒場所有の山を横領するこんたんにて、急に出しゃばったばかりだったので、地理もくわしいはずもない、とうとう山に迷ってしまった。役人は途方に暮れていた隣村の庄屋をしりめに駒場の庄屋に山案内を命じた。利口なおとなしい駒場の庄屋は、各洞各山の名称から昔より名をつけた由来などくわしく面白く語りながら山境いまで案内したのだった。江戸の役人もはじめてこの山は駒場所有であることが判明して、隣村庄屋はきびしくおしかりをこうむって事件の判決はすんだのだった。然し駒場の庄屋は隣村と喧嘩別れではよろしくないと駒場村民によく話して承知してもらい、師々路中腹山路以南を年貢取りきめ上左記の条件にて入会できるよう取りきめたのであった。
 一、入山するにはお寺脇より師々路へ通ずる山路より入山の事
 一、知久保沢口よりの入山は厳禁する
 花も実もある駒場の庄屋のさばきに感心せぬものはなかった。
たわごと川みさき
 明治の終わり、市の沢の高等科一年(今の五年生)の女子児童二人は城山へ蕨取りに行った。
 帰りに上町の一本橋を渡って家に帰ろうとして橋の真ん中まで来たとき、前を行く児童はふと下を見た。激流の早さに目がくらみふらふらっとした途端、川へ落ちこんでしまった。後から来た児童も川流れの友に目を注ぐと、たちまちやはり目がくらみ続いて落ちこんでしまったのである。
 町裏の畑に仕事をしていた農夫は、流れてくる児童を見つけ、かけつけて川に飛びこみ児童を救い上げ人工呼吸をしたが生き返らなかった。家へ知らせてかけつけた二人の母は、声をかぎりに子供の名をよびながら泣きさけぶのであった。
 そんな事件があって二、三日たった夜のことでした。
 中関のある青年二人は何か奇抜な悪戯はないかと語り合っていた。
 三日ばかり前に市の沢の子供が川流れで溺死したのに気がつき、川みさきにばけて呼んではと一人が言いだした。早速話はきまって駒場町裏の川端へ暗闇をたどりたどりながら行った。丁度拾い上げられた辺まで行くと二人で、細く長く「ホーイ」「ホーイ」と女のような声で間を置いて一本橋までよばりながら歩いて行った。一本橋まで行くと何くわぬ顔して上町の町まで上がって家に帰った。
 それから十日程毎晩八時頃に「川みさき」をくりかえして続けた。
 上町の人達は風の間に間に先日死んだ娘等の川みさきの声が流れてくるのだとおののいた。子供を持つ親達は毎晩戦々兢々としていた。駒場の度胸のよいある青年は、いまどき川みさきなどあるはずがないと、ある夜一本橋より少し下方へ行って川原の大きな石の蔭にかくれようすを見ていた。
 そんなことは知るよしもなく例の二人の青年は、川しもからよばりながら段々上がって来た。駒場の青年の隠れている前までよばってきた。駒場の青年は飛び出て、何だ君達であったのかと言って路をふさいだのであった。中関の青年等はわはっはと笑い出してしまった。
 駒場の青年は、悪戯も程があると、二人を厳しく諫めたのであった。
 そのまゝ川みさきは消えてしまって、その夜から静かな夜は続いたのであった。
駒場の大火
 それは今から約百年前の慶応二年のことであった。今のかじやの裏に老夫婦がいた。その家から出火した。お手習師匠の矢沢のお爺さんは表へ出て、番木といって厚い板がつるされてあるのを木のつちで「パンパン」とたたいて近火の警鐘を皆に知らせたのであった。町の者は一応火元へきて見て驚いてわが家へ帰り、家財道具を一生懸命にはこび出した。火元の消火にあたる者は一人もなかった。たちまち火は北側へもうつり、風も少ないのに両側がどんどんもえて上町と下町とへひろがっていった。私の家では親類の方が家財を置いてくれと沢山はこびこんだ。我が家も危なくなった。まず親類の家財を裏へはこんで次に我が家の家財をはこぼうとした時は火が廻ってしまい、ほとんど我が家の家財ははこび出すこともできず焼いてしまったのでした。
 昔のお婆さん等はこれからは火事のときは絶対に、どんな近い親類の家財でもお預かりしてはならないと口ぐせのように言い聞かされたのであった。私の父はまだ十一才であったので、馬場の親類へ逃げて行けと言われたので一人馬場へ行ったのだった。
 上町もその当時は御用水もなく、両側がどんどん燃えていった。萬や綿や(局の上)辺まで火の手がとどいた時、小野川・昼神方面の青壮年が大勢来てくれて、亀や(髙坂所平さん)正木や(山田等さん)両家を半こわしにして火道を切ったのであった。中関・前原・山本方面の人々が大勢来て、金やの前の水せぎから水をくんでかけたので金やの隣りの橋場が半焼で助かったのであった。殿村の倉庫のところが紙やの酒店であった。紙やは日の出の勢いであったので、火事見舞いの人々に沢山酒をふるまって防火をたのんだのでした。人々はむしろを屋根にしき、手桶で水を手ぐりで屋根まではこびどんどんむしろの上へぶちあけて燃えてくるのを防いだのであった。結局「紙八」(かみや)土佐や以北は火事からまぬがれたのでした。
 裏の藪の辺に家財道具をはこび出したのを、某方面から集団火事場泥棒があらわれて、タンス、その他片っぱしからはこびさったのであった。
 父が朝になって土佐やの表まで来たら、上町の焼け残りの町のところまでからんと見えたのでした。我しらず涙がこみあげてきたのであった。
 それより駒場大火の悲しみを、駒場中の皆々が子孫に言い伝えしたので、家内中骨身に徹して昭和十五年十二月三日の第二次駒場大火まで七十四年間駒場の町の中の火災は起こらなかった。
 今年は駒場大火百周年に当るので、駒場区あげて秋葉神社の臨時祭を開いてその時の駒場大火罹災者の悲しみを思いうかべて、今後駒場の町の無火災をおいのりしたいものだと思う。
 尚御用水は第二次駒場大火の節はお寺のところを通る大井に多量の水が流れていたのでそれを町の用水へ全部切り落とした為、山本・伍和の「ガソリンポンプ」が十分活やくができて焼失九戸ですんだが、現在は岩の沢放流の大井なので駒場の中心部はわずかの御用水が通るだけで非常の節も使用できぬありさまで、たとえ消火栓はあったとしても心細い限りだ。どんな犠牲を払っても中部電力とよく話し合いの上で真名板沢口から大井へ放流可能を実現する以外、わが駒場の町を火災から守る道はないと信ずるものである。
 火元をしたかじやの裏辺にいた老夫婦は、夜逃げのようにどこかへ消え去ったのであった。
木賊かり
 昔、川路の関島家の先代の主人は、江戸の高官の役を勤めていた。
 当地歌舞伎座の千両役者は非常によういならぬ御世話になることがたびたびあった。役者等は殿様のおまねきなれば、何処までも馳せ参じて狂言を御覧に入れると口ぐせのように殿様に申し上げていた。
 殿様は老齢になって免官となり、信州川路へ引っ越しになられた。その子息は父の話を思い出して、歌舞伎座の千両役者の所へ、狂言をやりに来てくれるよう手紙を出した。
 役者等は外ならぬ関島様の御事と早速承知して、長い道中つゝがなく川路に着き、舞台もできてはなばなしく狂言は始まった。
 丁度その芝居を見に来ていた園原の住人三名はうしろの方の桟敷に席を取っていた。
 いよいよ昔の市川団十郎の舞踊、木賊かりが始まった。鎌を持った団十郎は刃を前にして木賊を刈り始めた。園原の木賊刈りを仕事としている三人は、大声で「足を切るぞ、足をきるぞ」とよばった。団十郎は声のする方へじろりと目をやった。
 木賊刈りが終わって幕が引かれたあと、団十郎は使用人に「桟敷の右うしろに百姓風の三人づれの者がおるが、私の木賊刈りに何か手落ちがあるのか注意してくれたからここへおつれ申せ」と命じた。
 使用人はすぐ桟敷へ行き三名の百姓風の男を探しあてた。楽屋へまねかれた三名は、恐る恐る団十郎へ挨拶をした。団十郎は木賊刈りのことをたずねた。三名のうち一人は答えた。私達は木賊刈りの本職だが、木賊は非常に莖がこわくて刃を前にして刈れば勢いがつきすぎて足を切ることが毎々あるので、鎌の刃を外に向けてみな刈ることにしている。それで「足を切るぞ」と呼んであげたのだと語った。
 団十郎は非常に喜んで、これからは皆さんの言うとおりにすると言って茶菓を与えてねぎらったということだ。
 先日歌舞伎座で一流名優多数共演のもとに襲名披露をした花柳寿輔が、テレビの日本の芸能で舞踊木賊刈りを出演した。鎌の刃を外へむけて木賊を刈る所作を見せたが、さすがは昔の団十郎の流れをくんだ者のしぐさと感心して見ることができた。
観世一代能の事並木木賊刈りの事
 一享保年中 観世太夫 一世一代の勧進能を行ひ、京都の河原に舞台を造り桟敷を拵へ芝居を興行す 見るものは蟻が如く群集せり
 初日か二日目かに観世木賊刈りを舞ふ 其面白き事見るもの感に堪へたり 爰にいかにも田舎めきたる百姓と覚しきもの十人計り連れ立ちて 能を見物して有りけるが 数千人の人 悉く讃歎する中に 彼の百姓共は さもおもはぬやらん 何かひそひそ囁合てうけず顔なりけるを、観世 舞ひながら此体をきっとみとがめ 偖能も終りければ 木戸へ人を遣はし かくかくしたる衣類着たる百姓十人許り木戸を通らん時 心留め置き申すべし 尋ぬる仔細有りといひやりければ 程なく能済みて木戸を出んとする時 かの百姓共を差し留めけるゆえ 何事かはと大に驚きしを 観世 さわがぬやうに楽屋へ呼びて申し付けるは 今日 我等木賊刈を舞ふ 其出来たる事凡あるき志く思ふ心にて仕たりしかば 果志て貴賤群集おしなべて感心の様子みえたるが中に さも思はぬ様子にて何やら打ちひそみて囁合たるはいかにや 其さまふしぎに思ふによりて仔細を尋ね度 木戸にて留めさせしなりと申しければ 百姓共申すは 我等事は信州のその原と申すところの土民に候 今日木賊刈の能興行あるよし承り及び 我等も木賊刈る者共なれば なぐざみながら能とやらんを見物して一生の噺の種にもせまほしく思ひて今朝より芝居して見物する所 心なき賤の我々どもゝ感心して面白く侍る、
 去りながら只今あそばされたる内 いでいでとくさからふよと申す所 鎌の御手我等が仕なれたるとは聊替りある故申す事にて候といへぱ されば とくさはむかふへ一刀切りに刈り申し候に 今遊ばされたるを拝見致し候へは同じ所を前の方へ二刀にて、御かりなされ候 見申して候をあれにてはとくさはかられ申すまじく候 と云ひければ、観世大に感心して 物とらせつゝ厚く賞して戻しぬ その後、観世江戸にてとくさ刈をせし時、先年信州百姓らが批判せしをまもり、向の方へとくさ刈りければ其能の出来たる事 大方ならずみな目を驚すに至れりとぞ(雨窓閑話)
《補注》 木賊刈り
 天保年間、幕府の要職にあった関島氏(川路、現飯田市)に一方ならぬ愛顧をうけた七代目団十郎と三代目菊五郎が、官を退き老境に達した殿さまを慰めるため、遠路を川路まできた公演した。満場水をうったように静まりかえる中で「木賊刈り」を演じ、いよいよ木賊を刈りはじめました。
「あぶないっ、あぶない、足を切るぞ。足を切るな」
 観客の中から大声で呼ぶ者がいます。見るからにひなびた百姓が三人、何やらささやきかわしているのを団十郎は一瞥しながら舞い終え、幕をひいた後で付人に三人を楽屋につれてこさせ質します。三人は恐縮して重い口を開き、園原の者であるとつげ、ぽつぽつ答えました。
「私らは木賊刈りをしておるが、ただ今の”いでいでとくさからふと”のところで、鎌を持つお手が私らがやりつけておるのと違う。木賊は大変茎がこわく、鎌の刃を手前の方に向ければ、勢余って足を切ること必定。それで私らは鎌を外側に向けて刈っておるんで。危なくて見ておれんで、つい、あぶないっと叫んでしまった」
 これを聞いて団十郎は大いに喜び、三人を手厚くもてなしたといいます。この話は「雨窓閑話」では「享保年中観世太夫、京の河原に舞台を作り、一世一代の勧進能を行い」となっていて「信州その原と申すところの土民が」とつづいて、以下は同様です。
 佐々木繢、中原謹司のほかの演劇人に、明治初期関西歌舞伎中村座の中村信濃、女優に橘郁代、赤羽芳子など。清元國美太夫(本名・佐々木督夫)は駒場の人でした。
清元國美太夫
明治三十四年、春木屋・佐々木長太郎の次男に生まれる。
人間国宝・清元志寿太夫に師事し、度々歌舞伎座等の舞台を踏む。
虎岩寿平とは義兄弟。本名・佐々木督夫


清元國美太夫の台本
花の駒場
 駒場の町は神坂越の盛んであったころから関所があり、宿場として開けたところで、幕末中馬の盛んであったころ、文化年間一ヶ年の調べで片道五千八百二十六頭の馬が通った記録が残っているほどで、駒場のことを関の駒場とも、花の駒場とも云い、臼挽歌に、
 伯父子御座らば買うて来てもたれ花の駒場管笠を
と云う歌があり、天明三年二月放浪の人、菅江真澄来り、文化五年四月には本居宣長門人田中大秀が、また文化八年四月幕府の天文方伊能忠敬ら一行十七人が駒場に泊り、国学者服部管雄も此の町に足を運んでいる。
 また武田信玄も駒場で亡くなり、石屋さ駒場穴掘って通れの関所のことから、水戸浪士の物語りなど、矢張り駒場は此の地方の中心都市と云ったところで、駒場の宿場には古くは飯盛り女のころから、芸者なども一番多かったときは三十餘人あったと云う。
 なお旅芸人もやって来たと云うし、地狂言も盛んであったようである。(村沢武夫 著「伊那の芸能」より)


 かつて、商社勤務時代、洋書の輸入にかかわったが、その人物から銀行業務「貸出し」を担当し、担保を要求しないまま「貸出し」を行った。応対の折「相手の話をよく聞いた、一つの間違いもなかった」が、口ぐせであった。
 いつも、人の話に静かに耳を傾ける寿平翁は、知をもって、明治・大正・昭和の時代を生きた人生であった。
 外国語と古文に親しみ、こよなく二級清酒を愛しました。