戦国の両雄、武田信玄、上杉謙信、共に上洛の志を抱く秀れた甲越弐将であった。信玄が重厚精強、謙信は尖鋭果断と伝えられている。謙信曰く「信玄は常に後途の勝を考え、七里進むところは五里進み、六分の勝をこよなき勝として七八分にはせざるよし。されど我は後途の勝を考えず、ただ弓矢の正しきによって戦うばかりぞ」と云っている。
後世に永く伝えられている永禄四年川中島合戦は、村上義清を救う為の義戦と名を借りた乾坤一擲の戦であった。その年秋なかば、上杉謙信、大胆にも敵陣奥深く入り込み、海津城を尻目に妻女山を占拠した。武田信玄はその退路を容赦なく断った。妻女山の陣営を窺わせ「謙信は好んで囊の鼠となったようなもの」と、喜んだ信玄は小鼓を打ち謡曲「八島」を謡った。
九月九日未明、謙信は静かに行動を起こした。ついに永禄四年、後世に刻まれた決戦の火ぶたがきられたのである。川中島は、名物の濃霧が強く立ちこめている。上杉方の来襲が来るのは、未だ先と武田軍、厳然たる陣形は整えずにいた。しかし、早朝になり、濃霧が次第に晴れ、図らずも上杉の大軍を目の当たりにした。これは「車懸り」の陣形である。虚を突かれた武田軍の家臣は、狼狽の色を濃くしたが、流石、百戦錬磨の信玄は、落ち着きを払って陣形を「十二段」に構え、妻女山に向かった高坂別働隊の到着を待った。
この後、川中島での九時間にも及ぶ死闘が繰り広げられた。その上、両将が竜虎の大戦をやったのである。両軍ともに、多くの家臣を失い、戦場には六千余に及ぶ戦死者が残されたと伝えられる。信玄・四十一歳、謙信・三十二歳であった。後に、秀吉「分の行かない戦いをやったに過ぎないかもしれないが、信玄は深謀にして精強、謙信は尖鋭にして果断。この合戦も引き分けは当然なのかもしれない」と、感慨を持った。