春木屋本店 栗まん十物語
(小誌「豆の花」より一部抜粋)
明治20年、冬のことでした。
神坂峠を越え、長旅の末にようやく信濃に入った京の旅人甚六でしたが、夜も更け路銀もなくなり本当に困り果てて仕舞いました。 麓の農家に宿を求めましたが、何処も泊めてくれる所はありませんでした。
しかし、最後に辿り着いた豆腐屋の主人・長太郎が温かく迎い入れてくれました。
「その温もりは父の慈顔にふれたかの様でした。」
それから数日が過ぎ、甚六は「私に出来る恩返し」とお菓子をつくり、その製法を伝えました。
そのお菓子の柔らかな甘味は静かにとけてゆき、豆腐屋の主人・長太郎はこの美味しさにびっくりして「もっともっと多くの人に食べてもらいたい」と思いました。
こうして甚六は人の情にふれ、この有り難き実際(ことがら)を末の世まで伝えんとし住にしえの人々が安寧の世を望んで表した文字にちなみ、名を「栗まん十」と名付け、京のお菓子をこの地で造ることを主人・長太郎に託したのでした。
明治22年。
久しき人々が味わった深き想いに倣い、有り難きに祈りを捧げ、以来栗まん十を調整いたしております。
神坂峠を越え、長旅の末にようやく信濃に入った京の旅人甚六でしたが、夜も更け路銀もなくなり本当に困り果てて仕舞いました。 麓の農家に宿を求めましたが、何処も泊めてくれる所はありませんでした。
しかし、最後に辿り着いた豆腐屋の主人・長太郎が温かく迎い入れてくれました。
「その温もりは父の慈顔にふれたかの様でした。」
それから数日が過ぎ、甚六は「私に出来る恩返し」とお菓子をつくり、その製法を伝えました。
そのお菓子の柔らかな甘味は静かにとけてゆき、豆腐屋の主人・長太郎はこの美味しさにびっくりして「もっともっと多くの人に食べてもらいたい」と思いました。
こうして甚六は人の情にふれ、この有り難き実際(ことがら)を末の世まで伝えんとし住にしえの人々が安寧の世を望んで表した文字にちなみ、名を「栗まん十」と名付け、京のお菓子をこの地で造ることを主人・長太郎に託したのでした。
明治22年。
久しき人々が味わった深き想いに倣い、有り難きに祈りを捧げ、以来栗まん十を調整いたしております。
店主 敬白